南豆教会は、歴史的にも地理的にも典型的な農村教会である。伊豆半島の「奥伊豆」と呼ばれる中山間地農村に、地域農民たちの素朴な信仰と熱意によって立てられて120余年の歴史を刻む。

 

教会の創立は1879年。キリスト教禁制が解かれ、プロテスタント宣教が開始された直後の事である。そのような早い時期にどのような経緯でこの地に福音が届いたのか。実は詳細は明らかではない。信仰の代を重ねる中で、また戦時中の弾圧などで記録が散逸してしまった。

ただ、草創期より教会を支え続けた6つの家(永田家、岡村家、橋谷家、山田家、鈴木家、黒田家)の多くが養蚕農家だったことから、おそらく明治になって交易が自由化され、横浜などに出向いた機会にキリスト教に触れた農民が信仰を村に持ち帰ったのではないかと言われている。

教会は後に、下田に開校された「豆陽学校」の創立がきっかけで日本キリスト教会とつながるようになった。

一時、毛倉野地区(教会のある地域)は「キリスト村」と呼ばれたそうだ。

しかしやがて何らかの理由で明治末、ホーリネス教会へ属する事となった。

その後、戦争中のホーリネス系教会への弾圧により43年に解散。伝道所として再開されたのは1952年である。

戦後の一時期幼稚園も併設し、定住牧師の確保と地域とのつながりにつとめるが、著しい農村過疎と信仰の継承の困難に直面し、現在は戸数数十戸の小さな集落に、現住会員*名という状況の中にある。また、地域出身の最後の定住牧師が没して以来、ここ**年は兼牧の状態が続いている。

旧会堂は22年(大正11年)に建てられたもの。土地は、信徒から捧げられたものである。その土地にほぼ80年に渡り建ち続けたが、老朽化が進んだため2002年、会堂を新築し南豆教会を存続させるか、閉じるかの決断を迫られた。

一度浮上した「教区隠退教職ホーム」を同所に建設する話しも消えた。一体どうすべきか。最早解散して、長い教会の歴史の幕を降ろし、3名の会員は離れた地の教会に移るしかないのか。
祈りを重ね、みこころを問い、歴史を振り返り、さらにこの地とこの地の人々のことを考え続けた。その結果与えられた結論は、解散でも休止でもなく、建物の応急修理でもなく、これからも今までどおり教会を存続させることであり、かつ会堂を新築することであった。そして、その資は外部募金や援助に頼らず、3人の会員と、南豆教会関係者と、地域の方々の献金とすることも確認した。

 

今、中山間地農業は全く立ち行かなくなっている。段々畑で象徴されるこの種の農業は、まず経済的に成り立たず、さらに後継者がいないという現実に直面している。放棄田には葦が生い茂り、そこがイノシシのヌタバになり、近くの田畑への襲撃の拠点としている。山の木々は、管理する者がいなくなって拡大していく竹に席巻され、山の荒廃は見るも無残の体である。農地と山のこのような状態は、それを日々見ながら過ごす地域住民の心をも蝕む。そして、それを癒す子どもの声すら消えている。 
 

その中で、120年以上この地の風景でもあった南豆教会が消えていくことは、地域の人々はたとえ教会には来なくても、何と大きな打撃となることであろうか。

 

南豆教会には定住の牧師もいない。会員は3人しかいない。人を呼び込むようなイベントも持たない。 ただ週毎に、そこから讃美歌の声が村に残って田畑を守る老農たちの耳に聞こえるのみである。 
 

そして、この地が主によって慰めと励ましと救いを受けるようにと、とりなしの祈りが、礼拝の中で捧げられている。 
 

「明治」以来の日本の近代化の中で取り残され、重荷を負わされて来た農村。今まさに消え行かんとしている農村。その農村と共に歩んで来た南豆教会は、この地になくてならぬ風景として、そしてその地にキリストが歩まれている証しとして、教会が存続し続けること。それが、南豆教会の当面の農村伝道である。 

​教会の歴史

History

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